SNS流行語

SNS上で耳に残る流行語があります。

 

エビデンスに基づく主張.. 確固たる証拠に基づく

バズる.. 話題となる

もやる.. ぼかす曖昧なvague

マウントをとる.. 主導権をとる

 

朝日新聞 12/07/2023より転載

 

(耕論)「エビデンス」に囲まれて 鴻巣友季子さん、七條浩二さん、松村一志さん

 

 「エビデンス」という言葉が当たり前に使われるようになった。政治や教育、時には個人の意見にも、科学的根拠やデータが求められる。そのことで何を獲得し、何を失っているのか。

 

 ■即「善悪」判断、覆う不寛容 鴻巣友季子さん(翻訳家・文芸評論家)

 科学的根拠は重要ですし、私も大学の授業で「エビデンスを示すように」と言っています。ですが、誰かの意見に「エビデンス」を求めたり、自分の「エビデンス」を主張する際に、それが相手を言い負かす目的だけになったりしている場合があり、そういう風潮には疑問を感じています。

 SNSでは、強い言葉で、短時間で、分かりやすく立場を表明する人に支持が集まります。何かが起きた時、すぐに明確な言葉を発信する人が「バズる」。そしてその際に根拠として何らかのデータなどを提示すると、「エビデンスがある」として、その意見の正しさが裏打ちされるかのような効果があります。

 私が書いている書評や映画評の世界でも、「速く」「分かりやすく」が起きています。人目を引く解釈で、「これはこういう作品だ」とぱっと提示する人がウェブ媒体などで重宝される。私には「バズるように文章を書いている」というより、「バズるように作品を読んだり見たりしている」人が多いように見えます。「バズる見方」が先にあり、他の見方を切り捨ててしまっているのではないでしょうか。

 分かりやすい答えを求める人も多い。小説などの読者レビューにはしばしば、「作者が何を言いたいのか分からない」と書かれます。そんな様子を見ていると、答えを決めないで耐える、分からなさを耐えることは、とても精神力がいるのだと感じます。

 複雑なものを複雑なまま受け止められない社会では、物事は単純化され、短時間に善悪や正しさが決まります。とたんに「お前が悪い」という攻撃になる。

 さらに、弱い立場の人たちが抱える「抑圧されているけどうまく言い表せない」という状況をぴたりと言い当ててくれた「もやる」「マウンティング」などの言葉も、あらゆる場面に浸透して、攻撃に使われるようになりました。私はSNSで「昔は~だった」と書いただけで「マウント」と言われました。「自分が正しい」「お前は間違っている」というバトルのツールが増大し、エビデンスの突きつけ合いになるのは不毛だと思います。

 分からなさや違和感を抱えながら、答えは出なくとも、他者と長い時間をかけて話すのが対話のはずです。そういう土壌が失われ、不寛容が覆っている。その中で追い詰められる人たちが増えていくのではと懸念しています。(聞き手・田中聡子)

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 こうのすゆきこ 1963年生まれ。著書に「文学は予言する」。バイデン米大統領就任式で話題になった詩人アマンダ・ゴーマンの翻訳も手がける。

 

 ■政策、踏襲ではなく成果で 七條浩二さん(内閣官房行政改革推進本部事務局次長)

 厳しい財政状況で、有効な対応策を選び、効果を検証する必要性が高まっているが、日本は取り組みが遅れている――。2017年、国の会議がEBPM、つまり「根拠に基づく政策立案」を推進するよう、政府に発破をかけました。

 統計やデータ、出した成果といった「エビデンス」に基づき政策や支出規模を決めるEBPMは、欧米諸国で進んでいます。日本でも、企画段階から評価のための指標を定めようという議論は昔からありました。

 ただ現状、我が国のEBPMは広がりに欠けています。事業終了と評価が迫ってから「何で効果を測れば?」と専門家に相談することもまま見られます。薬や治療法の有効性を統計的に調べる、医療におけるエビデンスのような厳密さが必要でハードルが高いと、誤解された面もありました。

 前述の会議は、日本の政策がエビデンスでなくエピソードに基づいていると指摘しました。限られた事例や経験のみに基づくということですが、根拠薄弱な政策を前例踏襲で続けることはもはや許されません。

 そこで、今年6月に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)では、来年度予算案の編成から、EBPMを導入した行政事業レビューシートを積極的に活用することを打ち出しました。共通のシートに、政策の効果が出る過程や、成果を測る短・中・長期の目標を記載した上で、事後的にデータに基づいて政策を見直していく。約5千の政府予算事業すべてに、効果検証の取り組みを広げるのです。

 行政は、企業と違って目標について様々な観点があり、「経済的な業績向上」という一点で評価できないのは難しいところです。ただ、「成果を測る指標・データ」をどう設定するかが、政策担当者の腕の見せどころ、ともいえます。

 シートで、政策の立案・改善の過程を国民に示すことは、説明責任の観点からも重要です。成果などを分析しやすい形で示すことで、政府外の人たちとの議論にもいかせます。

 変化の激しい時代です。特に短期の指標で政策目的を達成できているかを見ながら、政策を柔軟に見直す。これからはそれが基本です。

 成果をどの指標で測ろうかというのは意思決定そのもの。調整業務などに忙殺されている霞が関の官僚に、政策を作っている実感をもう一度取り戻してもらいたい。そんな思いもあるのです。(聞き手・大牟田透)

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 しちじょうこうじ 1968年生まれ。92年総務庁(現総務省)入庁。神戸市、内閣府厚生労働省などを経て、2022年から現職(内閣官房内閣審議官)。

 

 ■科学にもグラデーション 松村一志さん(社会学者)

 「エビデンス」という言葉が広まった大きなきっかけは、1990年代に生まれた「エビデンス・ベースト・メディスン」でしょう。医師の経験に頼るのではなく、効果や副作用をめぐる科学的証拠に基づいて治療を施す。それが医療や学問を超えて人口に膾炙(かいしゃ)するようになりました。

 学問の世界では、膨大な量の論文などをもとに、証拠の強さを評価し、選別することが重視されてきました。それにより、エビデンスから言えることの範囲が狭められていくのです。

 一般の人々も、ネットなどにあふれる情報を選ぶためエビデンスを求める、というところまでは学問の世界と重なります。しかし、その後に「エビデンスがあるか、ないか」の二者択一に陥りやすい。実際は「エビデンス」というカタカナ語が持つあいまいさゆえ、その中身は怪しげなものもあれば、実験データや専門家の発言、ネットアンケートまで、雑多なものがひとくくりにされています。

 なぜ「エビデンス」でなく「証拠」と言わないのか。カタカナ語エビデンスには、証拠という言葉の持つ「決定的なもの」とは異なる、境界があいまいなニュアンスがあり、使いやすいのでしょう。

 それなのにコミュニケーションにおいては、エビデンスは「決定的なもの」と扱われがちです。その理由の一つに、データや数字が「人の介入がない絶対的なもの」と見える点があるでしょう。人が見えれば「あの人はうそつきだ」といった批判もできますが、匿名化されればとっかかりがありません。

 もう一つは、エビデンスの背景に科学者などの専門家がいるという重みです。虎の威を借る狐(きつね)のように、エビデンスを示せば相手の意見や主張を「あなたの感想ですよね」と封じ、「論破」もできる。ですが本来、「あなたにしかわからない」という個人の経験も重要だし、「個人の意見だから正しくない」わけでもありません。

 科学とて「何を研究するか」「どの証拠を採用するか」をめぐり価値観に基づく選別からは逃れられません。長い時間をかけて価値観が変わり、かつては異端だった見方が通説になることもあります。

 科学にもグラデーションや時の流れがあり、全てが決定的というわけではないのです。エビデンスを求めたくなった時には、そのことを意識する必要があるでしょう。(聞き手・田中聡子)

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 まつむらかずし 1988年生まれ。成城大学専任講師。専門は社会学、科学論。「証拠」をめぐる言説を研究。著書に「エビデンス社会学」。