キッシンジャー氏逝去

朝日新聞キッシンジャーさんが亡くなった記事が載っていました。彼の現実的外交について賛否両論の評価があるようです

キッシンジャーさんと言えば米中外交の立役者と思っています。同じノーベル平和賞を貰ったオバマさんの理想主義とは対称的な感じがします。細かいことはねぐり大局的現実主義外交を進めたということでしょうか。朝日新聞の記事を転載します。

 

12/1/2023

天声人語キッシンジャー氏死去

 

 ドクター・ジョーンズとミスター・ヨシダ。2人は、スパイ小説ばりに互いをそう呼ぶことに決めた。日米の国際電話で会話を重ねても、これなら交換手に正体がばれない。互いのボスは「友人」とした▼偽名にしたのは、わけがある。1969年、2人は沖縄返還の秘密交渉にあたった。結ばれたのが、米国は有事に再び核を持ち込めるとした密約だ。ヨシダは佐藤栄作首相の密使だった若泉敬氏。そしてジョーンズは、のちに米国務長官となるキッシンジャー氏だった▼陰謀好きの秘密主義者、ノーベル平和賞の受賞者、究極の現実主義者……。一人の人物がさまざまな評価で語られるというのは、それだけ複雑な顔を持っていたということか。キッシンジャー氏が100歳で亡くなった▼ユダヤ難民として、15歳でドイツから渡米した。20代で「弱さは死を意味する」と手紙に書き、正義より力が秩序をもたらすと信じた。中国を懐柔してソ連を牽制(けんせい)し、アメリカの優位を保つ。力の均衡を柱とした外交を1970年代に繰り広げた▼自らが道を切り開いた米中関係は、生涯の懸案だったろう。「我々の課題は、状況がホロコーストにならないようにしながら競争できる関係を見つけることだ」と、晩年まで警鐘を鳴らした▼二つの大国が協調という大道を歩むのは容易でない。それは承知のうえだった。しかし「あらゆる偉大な成果も、それが現実となる前は構想にすぎなかった」。キッシンジャー氏は、よくそう言ったという。

 

 

キッシンジャー氏死去 米中の和解に尽力 元米国務長官

 米国を代表する外交戦略家で、1970年代に歴史的な米中接近やベトナム和平を推進したヘンリー・キッシンジャー国務長官が29日、コネティカット州の自宅で死去した。100歳だった。▼3面=現実主義徹底、9面=日本に衝撃

 ニクソン、フォード両大統領の下で大統領補佐官(国家安全保障担当)、国務長官を歴任。大国間の「力の均衡」による安定を重んじる現実主義の外交を展開した。中ソ対立を利用して冷戦の構図を塗り替えた米中接近はその真骨頂だった。

 国交のなかった中国を極秘裏に訪れて周恩来首相と会談し、72年のニクソン訪中の準備を整えた。73年には、ベトナム和平協定を成立させ、ノーベル平和賞を受けた。

 ソ連との間でも、弾道ミサイルの増強に歯止めをかける72年の第1次戦略兵器制限条約(SALT1)の締結など、緊張緩和(デタント)政策を推進した。

 一方、ベトナム戦争期のカンボジアへの爆撃や、南米チリの社会主義政権転覆に関与。秘密外交を重ね、国益のためには手段を選ばない側面は批判を招いた。

 日米関係では沖縄返還交渉に深く関わった。日本側密使だった若泉敬京都産業大教授(当時)との間で、緊急時に沖縄への核兵器の再持ち込みと通過の権利を認める内容の秘密合意議事録(核密約)を作成した。

 最晩年まで旺盛な評論活動を続けた。07年には核廃絶を訴える共同提言を発表。その後、オバマ大統領にも直接伝えた。23年7月にも、中国で習近平(シーチンピン)国家主席と会談した。最近は米中対立と人工知能(AI)の危険性に警鐘を鳴らし、10月の米誌フォーリン・アフェアーズへの寄稿では「歯止めのないAIの進歩が米国や世界に破滅的結末をもたらす」として、米中などの協調を促した。

 1923年にドイツで生まれたユダヤ人。ナチスの迫害を逃れるため、38年に家族と渡米した。(ワシントン=望月洋嗣)

 

徹底した現実主義、評価相半ば 時には「敵」とも協力/力を重視、秘密外交も キッシンジャー氏死去

 二つの大戦の戦間期に欧州で生まれ、ナチズムの暴虐から逃れて米国に渡った少年は、いまに至る世界の枠組みを設計する戦略家となった。29日に死去したヘンリー・キッシンジャー氏の歩みは、現代史とそのまま重なる。大国間の「力の均衡」を重視する冷徹な現実主義者であり、ロシアのウクライナ侵攻などに揺れる足元の世界情勢にも警鐘を鳴らしていた。▼1面参照

 「外交というアート(技巧)とは……ただ性急に反応するのではなく、目標に向かって段階を踏むことだ」。2019年7月、米国務省での式典に登壇したキッシンジャー氏は太い声で、聴衆に語りかけていた。

 「世界における米国の役割は何か。私は歴史の探究を通じてそれを学んだ」。米外交を仕切ったキッシンジャー氏の原点だった。

 国益の追求こそ国家の本性である。国々の「力の均衡」によってこそ、国際秩序は守られる。国家の力の源泉は軍事力であって、必要とあれば行使をためらうべきではない――。外交の原則はそんな徹底したリアリズム(現実主義)だった。結果を得るためなら隠密行動も辞さず、時には「敵」とも手を結んだ。

 71年、中ソ対立の機を逃さず、キッシンジャー氏が極秘訪中で道筋をつけた米中和解はその歴史的な結実といえた。共産主義の「壁」の内側で孤立していた中国を世界市場へと導き入れ、その後の急速な経済成長とグローバル化の進展へつながる契機をつくったのだ。

 ナチスドイツによるホロコーストユダヤ人大虐殺)を経て中東ではイスラエルが建国され、パレスチナとの紛争が激化。キッシンジャー氏はここでも重要な役割を果たす。73年の第4次中東戦争後、イスラエルとエジプトを行き来する「シャトル外交」で和平仲介を担い、両国が和解する78年の「キャンプデービッド合意」に至った。ほかにもベトナムとの和平など、世界史に刻まれる外交成果を生み出した。

 一方で、「力」の重視と秘密外交をいとわない姿勢への批判は根強かった。ベトナム戦争期にカンボジアを爆撃して多くの市民の犠牲を出し、チリの政権打倒に介入したことなどは、とりわけ強い批判を受けてきた。

 

 ■日本側と核密約

 日米関係では沖縄返還交渉に携わり、交渉の日本側密使だった若泉敬京都産業大教授との間で、緊急時に沖縄への核兵器の再持ち込みと通過の権利を認める内容の秘密合意議事録(核密約)をまとめた。72年のニクソン訪中は、同盟国だったはずの日本の頭越しで進められ、日本側に苦い外交上の教訓を残した。

 現実主義を信奉する背景には、ナチスが席巻したドイツで10代半ばまで過ごした経験があった。理念が暴走する危うさや、生き残るために時代の波に順応せざるをえない人間の弱さを、間近で目撃した体験が深く刻印された証しでもある。

 冷戦終結から30年以上が経ついま、ロシアや中国が米国主導の秩序に公然と対抗し、大国がしのぎを削る時代が再び巡ってきている。「このままでは欧州文明を破壊した世界大戦よりひどい破滅的結果になりかねない」。晩年のキッシンジャー氏が演説などで懸念を示してきた事態に、世界は直面している。

 

 ■侵攻めぐり物議

 22年には欧州や世界の「力の均衡」を保つため、ウクライナ側が領土の一部をロシアに譲るよう促すような発言で物議を醸した。23年7月には北京を訪問し、習近平(シーチンピン)国家主席と会談した。イスラエルイスラム組織ハマスの軍事衝突が始まる直前の10月初旬にも、ニューヨークで登壇し、イスラエルが国として存立する権利を訴えていた。

 最近は、米中関係や人工知能(AI)の危険性に警鐘を鳴らす発言が目立った。23年4月の英誌エコノミストの取材に対しても、米中対立を念頭にこう語っていた。「我々は第1次世界大戦前のような状況にある。『均衡』が少しでも破られれば破局に至りかねない」(望月洋嗣=ワシントン、沢村亙)

 

 キッシンジャー流、日本に衝撃 ニクソン訪中、直前まで伝えず 沖縄核密約交渉、外交当局外し

 100歳で世を去った国際政治学者のヘンリー・キッシンジャー氏は、そのしたたかな言動で、「外交・安全保障の基軸は日米同盟」(岸田文雄首相)と唱え続ける日本に緊張感をもたらした人物だった。▼1面参照

 

 1970年代初めにニクソン大統領の補佐官として極秘訪中し、ニクソン訪中を演出。発表直前まで日本に知らせなかった。中国は60年代に核兵器開発を進めており、日米同盟強化で対抗しようとした日本に、米中接近は衝撃を与えた。

 元中国大使の谷野作太郎氏は11月30日、朝日新聞の取材に「米ソ対立の冷戦下において米中を和解にもっていき、アジアの絵模様を緊張緩和の方向に変えたことは大きな業績だった。日本でも米国に先を越されてたまるかと大騒ぎになり、72年の日中国交正常化につながった」と振り返った。

 「それでも、キッシンジャー氏のあの秘密主義は好きになれませんけどね」と谷野氏。「日米の外交当局間には当時、対中政策を緊密な協議の下に進める申し合わせがあった。それを破ってまでの強引さでした」

 日本が知らない間に米国の対中政策が大きく変わらないよう連携を密にすることは、以来の日本外交の教訓となった。「核兵器のない世界」を掲げるオバマ大統領が2009年に就任した時も、日本政府は米中接近を危ぶんで「核の傘」の維持を求めた。

 キッシンジャー氏が日本外交に与えたもう一つの衝撃が、沖縄の1972年返還に合意する69年の日米首脳会談での核密約だった。米国は沖縄の米軍基地から核兵器を撤去するが、緊急時には再び持ち込むことを日本が認めるものだ。

 キッシンジャー氏は、佐藤栄作首相とニクソン氏による核密約を実現するべく、首相密使を務めた若泉敬京都産業大学教授と極秘交渉。若泉氏が経緯を94年に告白した著書には、沖縄返還という極めて大きなテーマをめぐり、交渉を重ねてきた外交当局が土壇場で外され、二人だけで決着を急ぐ危うさがにじむ。

 70年代に外相同士で親しかった宮沢喜一元首相は、95年の著書で、日本の将来をめぐる「論争」を紹介している。

 キッシンジャー氏「これだけ経済力のある日本がやがて核兵器を持つに至るのは、歴史的必然だ」

 宮沢氏「そんなことはしない」

 キッシンジャー氏「いいとか悪いとか言っているのではない。歴史とはそういうものだ」

 (編集委員・藤田直央)

 

 ■「老朋友」悼む中国 米中緊張、橋渡し最後まで

 「最も中国を理解したアメリカ人」

 「中国人民の老朋友(古くからの友人)」

 米国のキッシンジャー国務長官が29日に亡くなったことを報じる中国メディアには、中国にとって特別な存在だったことを示す見出しが並んだ。両大国を国交正常化へと動かした歴史の立役者は、再び緊張を迎えた米中関係を、自らが描いた軌道に戻すことに最後までこだわっていた。

 中国外務省によると、習近平(シーチンピン)国家主席はバイデン大統領へ弔電を打ち、深い哀悼の意を表した。外務省の汪文斌副報道局長は30日、キッシンジャー氏を「米中関係の開拓者であり建設者だった」とたたえた。

 キッシンジャー氏は1971年7月にニクソン米大統領の補佐官として極秘訪中し、周恩来首相と会談。翌年のニクソン氏訪中、79年の国交正常化へと続く流れをつくった。

 米中は朝鮮戦争で戦った間柄だが、共通の敵とみなしたソ連への対抗で、歴史的な接近に動いた。緊張緩和を演出したキッシンジャー氏の現実主義的なアプローチは、中国外交にも影響を与えたとされる。

 その後も中国との関わりはキッシンジャー氏のライフワークとなった。再び緊張の時代を迎えた米中関係の橋渡しが、最後の仕事になった模様だ。今年7月にも訪中し習氏と会談したことは、一時は途絶えていた米中の対話機運を盛り上げる動きとして中国国内では好意的に受け止められた。

 今年6月、米メディアの取材に、台湾問題をめぐる米中の対立について「今の軌道のままで行けば、武力衝突も起こりうる」と悲観的な見方を示した。その上で、こう述べた。

 「断崖の上から引き返せるかは、双方にかかっている」(北京=斎藤徳彦)

 

12/2/2023

(社説)キッシンジャー氏 大国の過ち 難題残し

 大国が互いに競い合う「力の均衡」しか、国際社会が共存するすべはないのか。そのような冷戦期の思考こそ、もはや持続可能な現実主義とは呼べないだろう。

 ヘンリー・キッシンジャー氏が死去した。享年100。ニクソン、フォード米政権で外交を指揮したほか、歴代政権の顧問役となり、1970年代以降の米国の対外政策を決定づけた重鎮だった。

 米中の和解、旧ソ連との緊張緩和、中東和平仲介など足跡は多彩だが、全般的な評価は今も論議の的だ。強い国力の下で国益を最大化する現実主義を貫き、大国間の駆け引きに細心の計略を巡らす一方、中小国の主権や人権への配慮は乏しかった。

 ベトナム戦争で隣国カンボジアを一方的に爆撃したほか、チリの社会主義政権を倒す軍事政変やパキスタンによるベンガル人虐殺などの背後には、キッシンジャー氏率いる米政府の関与があった。

 軍事侵攻を含む中小国への介入は旧ソ連も進め、東西の陣取り合戦と化した。米ソ両大国が国連憲章を主体とする法の支配や主権尊重の原則を幾度も踏みにじった歴史を、多くの国は忘れていない。

 米国は長らく、自由・民主を掲げた国際介入主義と孤立主義との間で揺れてきた。キッシンジャー氏は冷戦終結後の自著「外交」で、「初めて米国は世界の支配も撤退もできない時代になった」と記した。米国パワーが全能と思えた時は去り、自国の限界をわきまえつつ新たな秩序づくりへ行動すべきだ、と。

 この戦略家が晩年に核廃絶論に転じたのも、現実を直視しての結論だろう。偶発的であれ意図的であれ、核戦力の暴走を完全に防ぐ手立てはない危うさを唱え、核軍縮論議に弾みをつけた。

 しかし、そうした提言が生かされたとは言い難い。

 イラク戦争は米国の威信を失墜させ、トランプ政権は米国第一主義に走った。ロシアは無法な侵略を始め、核戦力は保有国の間で増強されている。さらに、米国と中国が再び世界の陣取り合戦に動く様相には憂慮するほかない。

 「我々はどんな結果を招くかの考えもないまま、中ロとの戦争の淵に立っている」。近年のキッシンジャー氏はそう警告し、改めて大国間の均衡点を探るよう訴えた。

 ただ、世界はもはや少数の大国主導ではなく、多くの国に力が分散した多極化構造になりつつある。中小国の犠牲の上に大国の安定を築く秩序は許されない。力に頼る均衡論を脱する21世紀の外交指針は何か。難題が残された。