イスラエルとハマスの戦争 宇野重規

朝日新聞に以下の記事がありました。公研による鼎談で、トランプさんがアブラハム合意をとりなしたそうですが、この合意でアラブ諸国の一部とイスラエルが国交を正常化したが、パレスチナ問題の解決が置き去りとなり、そのことが今回のハマスによる攻撃の背景になったということを言っています。ハマスを刺激してしまったのでしょうか。
 

朝日新聞11月30日論壇時評を転載します。


(論壇時評)パレスチナの未来 暴力絶つため、歴史に向き合う 政治学者・宇野重規

 

 パレスチナガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスが、10月7日にイスラエルに対して大規模な攻撃を行ってから50日余りが過ぎた。双方合わせて1万6千人の死者を出した戦闘は、11月29日時点で休止しているものの、本格的休戦や、ガザ地区における人道危機の解消が実現するかは不明である。インフラが破壊され、食料や水、医療が不足する現地では、今この瞬間にも多くの人命が失われている。

 「公研」11月号の池田明史・阿部俊哉・鈴木啓之による鼎談(ていだん)は、今回の衝突についての優れた解説である(〈1〉)。「過去に起きた衝突の規模を完全に超えている」ことで一致する三氏は、ハマスの攻撃によって多くの犠牲者を出したイスラエルが、国内世論を考えると地上侵攻を継続する可能性が強い一方、「組織であると同時にイデオロギーである」(池田)ハマスが、イスラエルという国家の存在を認めない以上、和平が困難であることを強調する。

 鼎談はさらに、米国のトランプ政権が主導した2020年のアブラハム合意の影響にも言及する。この合意でアラブ諸国の一部とイスラエルが国交を正常化したが、パレスチナ問題の解決が置き去りとなり、そのことが今回のハマスによる攻撃の背景になったという。イスラエルという国家とパレスチナという非国家が対峙(たいじ)する構図を踏まえ、パレスチナ社会について、国際的にあらためて目を向けていくことが重要だろう。

 「世界」12月号もガザ危機について力のこもった特集を展開している。中東地域研究の臼杵陽(うすきあきら)は、ガザ地区を自ら訪問した経験を踏まえ、ハマスがなぜ生まれ、なぜ支持されているかを論じる(〈2〉)。ガザ地区には、種子島よりも小さい場所に名古屋市ほどの住民が暮らす。過密な人口に加え、許可がないと出入りできないガザは「天井のない牢獄」とも呼ばれる。無差別テロ攻撃を行ったハマスが、同時にイスラム教の相互扶助の精神に基づき、医療・教育・食料供給の面で「慈善団体」としての役割を果たしてきたという指摘が注目される。

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 「ハマスの背後にイラン」としばしば言われる。しかし、イラン現代政治の中西久枝は、問題はより複雑だという(〈3〉)。アブラハム合意により、アラブ諸国から置き去りにされたハマスがイランを必要とする一方、シーア派のイランにとってスンニ派ハマスとの絆はそれほど強固でない。むしろ経済制裁に苦しむイランにとって、米国との対立を浮き彫りにしたハマスによる攻撃は「タイミングの悪いもの」であった。

 米国の政治学者マーク・リンチは、ハマスによるイスラエル市民への残忍な攻撃が戦争犯罪である一方、封鎖や爆撃、住民の強制移住策を講じたイスラエルの集団的懲罰戦略も重大な戦争犯罪であると論じる(〈4〉)。ガザ侵攻は人道的、道徳的、戦略的な大惨事を引き起こし、イスラエルの長期的な安全保障を損なうとともに、パレスチナ人に計り知れない人的ダメージを与える。イスラエル支持を明確にするバイデン政権であるが、むしろ壊滅的事態の回避に向けて努力することが米国の利益であるとリンチは主張する。

 エネルギー危機の視点から問題に接近するのが、エネルギーアナリストの岩瀬昇とイスラム研究者池内恵の対談である(〈5〉)。今回の衝突が直ちにエネルギー情勢に大きな影響を与えないとしつつも、「持たざる国」である日本にとっての、地政学リスクを踏まえたエネルギー安全保障の重要性を説く岩瀬に対し、池内は中東における日本の新たな役割を強調する。従来の二国間関係の外交を超えて、GCC(湾岸協力会議)に関与するなど地域単位の外交関係を構築することは、イスラエルとの深いつながりに縛られる米国と比べても、日本の課題と言えるだろう。

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 日々、子どもや老人を含む多くの市民の命が失われていく惨劇の映像を目にすると、絶望に陥りそうになる。それでもわたしたちは、地域の複雑な歴史を理解し、人々が暴力から解放されるために、自らがなすべきことを考え続けなければならない。

 この点で、フェミニズムクィア理論で知られる哲学者ジュディス・バトラーの議論が示唆的である(〈6〉)。ホロコーストで多くの親族を失ったバトラーは、にもかかわらずイスラエルによる国家暴力を批判する。同時にハマスによる暴力を非難し、その組織の消滅を願う。しかしながら、バトラーは単に非難するだけでなく、その暴力がどのように生じたのかを、歴史の一部として理解しようとする。すなわち、自治の約束が果たされぬまま荒廃したガザからハマスが成長した歴史を理解し、イスラエル人が生きてきた暴力、哀悼、怒りの歴史を知ろうとする。

 このような姿勢は党派的立場を明確化することを求める人々からは、暴力の「相対化」と非難されるだろう。しかしながら、道徳的におぞましい行為を非難するために、それを理解し、判断し、考えることを断念しなければならないのか。むしろ、この地域で真の平等と正義が実現する未来を想像し、そのために闘わなければならないと説く哲学者の言葉が重い。

 国際政治学酒井啓子による読書・映画案内が問題を「顔の見える」ものにしてくれる(〈7〉)。同時代に生きる人が被る巨大な不正義にどう向き合うか。わたしたちの生き方が問われている。

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 〈1〉池田明史、阿部俊哉、鈴木啓之「繰り返されるハマスイスラエル衝突 報復の連鎖に潜むパレスチナ問題」(公研11月号)

 〈2〉臼杵陽「ハマースはなぜイスラエル攻撃に至ったのか」(世界12月号)

 〈3〉中西久枝「イランとアメリカ 中東政治の激震のなかで」(世界12月号)

 〈4〉マーク・リンチ「大いなる誤算 ガザ侵攻というイスラエルの間違い」(フォーリン・アフェアーズ・リポート11月号)

 〈5〉岩瀬昇、池内恵「『持たざる国』を襲う地政学リスク」(Voice12月号)

 〈6〉ジュディス・バトラー「哀悼のコンパス 暴力を批判する」(清水知子訳、世界12月号)

 〈7〉酒井啓子「人間を描く作品たち」(世界12月号)

 ※敬称略

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 うの・しげき 1967年生まれ。東京大学社会科学研究所教授。専門は政治思想史・政治哲学。10月に「実験の民主主義」(中公新書)を刊行した。