思考の整理学を読んで

外山滋比古さんの思考の整理学という本にあるきっかけで出会うことができました。

振り返ってみてそうだったのかと自分で納得できる気がしました。

気になっていたところをあげてみました。きっと、アイディアや考えにつまったときに参考になると思います。



グライダー

 

人間にはグライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分で物事を発明、発見するのが後者である。両者は一人の人間の中に同居している。

学校はグライダー人間をつくるには適しているが、飛行機人間を育てる努力はほんの少ししかしていない。指導者がいて、目標がはっきりしているところではグライダー能力が高く評価されるけれども、新しい文化の創造には飛行機能力が不可欠である。それを学校教育はむしろ抑制してきた。急にそれを伸そうとすれば様々な困難が伴う。他方、現代は情報の時代だ。グライダー人間をすっかりやめてしまうわけにも行かない。それなら、グライダーにエンジンを搭載するにはどうしたらいいか。この本にヒントがあるようだ。

 

触媒

 

この頃よく発想という言葉が用いられる。発想がおもしろい、おもしろくないのの発想の基は個性である。それ自体がおもしろかったりするのではなく、それが結びつける知識・事象から生まれるものがおもしろかったり、おもしろくなかったりするのである。発想の母体は触媒としての個性である。発想の扱うものは、周知、陳腐なものであってさしつかえない。そういうありふれた素材と素材とが思いがけない結果、化学反応を起こして、新しい思考を生み出す。発想の妙はそこに有りという訳である。寝かせておく、忘れる時間をつくるというのも主観や個性を抑えて、頭の中で自由な化学反応のおこす準備をすることに他ならない。

 

アナロジー 類推 譬え

 

読書する際、言葉でも、流れと動きを感じるのは、ある速度で読んでいるときに限る。難解な文章、あるいは辞書首っ引きの外国語などでは、部分がバラバラになって、意味がとりにくい、残像が生滅してしまい、切れ目が埋められないからである。このようにして、文章のなかの言葉が、離れ離れになりながらも、一続きになるのは残像のせいであって、文章の非連続性の連続を支えている。これは着想をえられるまでの具体例になると思っている。ここでみられるのは、アナロジーである。文章における、非連続性の連続の謎を、映画フィルムの類似の現象によって説明しようとしたものである。

一般に、うまい説明や表現がないとき、「たとえて言えばーーのようなものだ」といった形で、我々は絶えずアナロジー方法を用いている。未知を解くもっともありふれた方法として良い。

 

セレンディピティ

 

遠くにいる潜水艦の機関音をキャッチしようと言う研究から、イルカの交信音をとらえたのが、特に優れたセレンディピティの例である。発見、発明において、セレンディピティによるものはおびただしい。この言葉の由来がちょっと変わっている。

18世紀のイギリスに「セイロンの三王子」という童話が流布していた。この三王子はよくものをなくして、探し物をするのだが、ねらうものはいっこうに探し出せず、全く予期していないものを掘り出す名人だったというお話だ。文人で政治家のホレス・ウォルポールという人が、セレンディピティserendipity)という言葉を作った。そのころのセイロン(現在のスリランカ)はセレンディップといわれていた。セイロン性といったほどの意味か。以後、目的としていなかった副次的に得られる研究成果が広くこの語で呼ばれることになった。

考え事をしていて、テーマができても、一途に考えるのは賢明ででない。しばらく寝させ、温める必要がある。視野の中心部にありながら、見えないことがあるのに、周辺部にあるもののほうがかえって目をひく。そこで、中心部にあるテーマの解決が得られないのに、周辺部に横たわっている、予期しなかった問題がむこうから飛びこんでくる。 寝かせるのは、中心部に置いてはまずいことを、しばらくほとぼりのさませるために、周辺部へ移してやる意味を持っている。そうすることによって、目的の課題を、セレンディピティを起こしやすいコンテキストで包むようになる。人間は意志の力だけですべてを成し遂げるのは難しい。無意識の作用に負う部分が時には極めて重要である。セレンディッピティは我々にそれを教えてくれる。

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